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ウラン・プルトニウム不使用。天然100%管理人から作られた、地球に優しいブログです。
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ブログを操るためには、まずブログのことを熟知しなくてはならない。
基本的な操作、仕組み、利用規約。
当たり前の事を当たり前に出来るのが大人。
しかし、当たり前と思い込んで、確認しないで済まそうとするのも、また大人か。

時には恥をかけば良い。
こういった記事も案外、失敗がきっかけでネタになっているのかもしれないよ?

おしゃべりが苦手な人も、参考にして欲しい。
勇気を出して、とにかく何か話してみよう!

話すと、そのうち間違ったことを言ってしまうだろう。
無難にまとめた時も、自分らしくないと感じる時があるだろう。
だから、弁解をする。
訂正すればいい、付け加えるのもいい。
そうやって誤解を解いていくうちに、また会話が出来上がっている。

まあ、ほどほどに。
くどい言いわけばかりしてると、嫌われるかもしれないからね。

‥‥‥私の事だったりして!


自己紹介を始めたら、弁解が尽きるまで終われないってこと。
聞いてもらえることも重要。
嫌われないように言いわけするのが、売れっ子の物書きなのかもしれない。

珍しく、しっかりまとまったかな!
でも、まだ途中なのがもったいない。
ブログの熟練度について、話を戻そうかね。

マニュアル的な基礎をマスターするだけでも立派なものだが。
センスに関わる部分について考えてみた。

世の中には、ブログ以外にも自分の想いをアピールする場がある。
本であったり、テレビ、絵画のコンクール、色々と。
何も、ブログだけにこだわる必要は無い。

それでもブログが選ばれるのは、それなりに理由が有りそうだ。
手軽さがウケているのかなと思う。
自宅で活動することができ、身なりで敬遠されることも無い。
審査員の先生から、厳しい採点が下されることも無い。

でも、本当にブログが合っているのだろうか?
我々の性格がブロガー向きであっても、作品がブログ向きとは限らない。
己の意図した世界観に、サイトのデザインが上手くかみ合わなかったり。
画像を扱えば、ページの重さがネックになるかもしれない。

どんなに素晴らしい内容が含まれていたとしても、センスが悪ければ台無し。
ブログというシステムを十分に生かしきれていない、ということだ。

生きてはいても、死んでいるのと同じ!
とか、言ってしまいそう。

ブログって手軽にできるもののはずだったが。
気が付くと、全然手軽でも気楽でもない考えに耽っていた。
真剣に取り組めば、多少の苦悩は付き物か。

当たり前のことかもしれないけれど。
ブログでは文章の形式から扱う内容まで、ブログ仕様にすることを心がけたい!
ネタが無いから何でも詰め込んじゃえ、ではなくて。
厳選することで独自性を生み、他のメディアとの違いを主張していける。

ネットサーフィンする人は正面玄関から入ってくるとは限らない。
待っていてくれるとも限らない、連載物の小説を中毒気味に貪るように。

だから、あえて一話完結を心がけよう。
「続く」の感じで終わらせても、読みにくいと思ったから。

複数の記事に関連性がある事を、悪い事だとは思っていない。
むしろ継続すれば、時と共に深い考えに到達できるかもしれないし。
カテゴリーを増やさなくてもいいって、それもあったね。

一つ一つの積み重ねで、大きなブログになっていくのも魅力だけど。
前の記事を読まなくても、十分内容の濃い物に仕上げたい。
「またがらないサービス精神!?」を実行していきたいな。

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コンテンツという素っ気の無い単語は好きじゃないが、とにかくそれが不足している。
私は書くことによって、穴埋めしようとしてきた。

まずは、見かけより中身。
商品なり、作品なりが置けなくちゃ話にならない。

美しく、明快で、流れるような言葉使いを心がけたいもの。
だけど、肝心の文章にも欠点が見えてきてしまったんだから、しょうがない!

一人称については「私」に決めて、なんとか徹してきた。
「自分」とか、「我々」も使ったと思うけど、それらは不自然と言うほどでもない、たぶん。
理由も無く「僕」や「俺」が突然加われば、二重人格と疑われてしまう!

問題は、語尾の方。
「です」「ます」で終わることもあれば、「だろう」「である」で終わる時もあった。

つまり、アンタはどんなキャラなのよ?って部分。
だとすると、私はその部分を隠したがっているようにも見える!
恥ずかしがり屋なんだか、回りくどく振舞わないと己をさらけ出せないのかもね。

あと、微妙な違いで、「だけど」と「だけれど」が思いあたる。
後者の方が美しい日本語という気がするが、上品すぎるのもどうか。
一般的な口調に近づけて、文を構成していくのも捨てがたい。

自分で気付いてはいたけれど(けど?)、実際指摘している情報系サイトがあるとなると悩ましい。
直すべきか、それとも直さざるべきか!?
人気のあるサイト作りを考えるなら、一貫性を持たせるべきかもしれないが。

その日の気分や感情を込めて書くと、どうしてもブレてしまう。
「です」「ます」は謙虚で良いと思う時があれば、そんなの堅すぎると思う時だってある。

勢い良く大胆に行ったあと、手綱を締めたい時ってあるよね?
ちょっと偉そうだったかなと気になって、丁寧な口調になってしまったり。

‥‥‥八方美人って奴か、う~ん。


文章の書き方を教える人たちは、こういう複雑な気持ちを理解しているのだろうか?
作家として旬が過ぎたから、仕方なく教える仕事をするというのでは、なんだか頼りない。

ただ頭ごなしに言われ、矯正させられそうな印象を抱いて、私は教わる前にずらかった。

今の私の状況を考えると、何らかの特別な教育を受けていた方が良かったかもしれない。
こうやって、わざわざ執筆に精を出しているんだから。

マニュアル通りに書けないよりは、書ける方が良い。
いろんな書き方ができて、その中からより相応しい技法をセレクトできる。

いつまでも、「できない」「素人だから」と言い訳するのは情けないかも。
たとえ資格など持つことはないとしても、プロ意識だけは持てるようになりたいものだ。

また、マニュアルどおりに書ける人なら、たくさんいるんだろうね。
近道のつもりでそこそこ勉強しても、代わりのできる人間とポジションの奪い合いになる。

ライバルが欲しいのなら、わざわざ物書きじゃなくたって良いし。
むしろ参加者が少ない分、井の中の蛙で終わる可能性が高い。
人気の無い活動には、人が集まらないからなぁ。
やはり、小学生がやりたくない、なりたくないって言う仕事なんだろうか。

私が小学生の頃も、作文なんて書きたくなかった。
何も悪い事してないのに書かされる反省文、と言った感じかな。

いずれにしろ、先生から花丸が貰える歳じゃないってこと。
失敗しても、責任を取ってはくれない。
完璧に書いて、いっぱしの物書きになったつもりでいたら、文章に人間味が無いって。
そう思われてもね。

だから私は自分の意思で、欠点に目をつむる!
時間に解決をゆだねる!

ここは「書ク実験」のタイトルで始まったブログ。
実験には実験の良さがある。
慣れてない恋愛観は、擦れてない恋愛観でもある!

アグレッシブに挑戦して、長所を伸ばしていけばいい。

自分自身の作品を、寛容な眼差しで見守る姿勢も大事かな。
小さな子どもを見るくらいの優しさで。

あらあら、またブレちゃったの? しょうがないわね~。


前回の記事では、新しい記事に古い記事が下へ押しやられる切なさを熱く語ってしまった。
確かに、そういう気持ちもあるんだけどね。

逆に昔の自分が表現したものが、いつまでも大きな顔をしているというのも恥ずかしい。

マンガ家に例えれば、下手な頃の作品を大衆にらされるようなもの。
落書きみたいな絵がいつまでも代表作なんて、その恥ずかしさは容易に想像できる。
あと、写真も厄介だ。
若気の至りとか、遺影にカッコ悪い写真を使われるなんてことも!


ん? 何だろうね、この「記事の表示の方法」というのは。
昇順とか、降順とかあるね。
これをいじくれば、ブログの記事を上から古い順に変更できるのかね。

‥‥‥。

なんと、何と初歩的なぁぁぁぁぁ!!

失敗を恐れずやっていこうと思っていたのに、やっぱり怖い。

人に読んでもらうという事の重み、プレッシャー。
パソコンに向かう。
肩が凝る。

ブログの更新はせつない。
古い記事を下方へ押しやって、新しい記事をトップへ置くということ。
だから、下手なモノを投稿できない!

もっと、巧く。もっと、正確に。
もし、間違った情報を提供してしまったら、どうしよう?
どんな顔をして、次の話をすればいいんだろう。

‥‥‥まあ、顔は見えないか。

失敗を気にするより、失敗した後にどう振舞えるかが大事だ!?
そうかもしれない。
でも、私にはその辺を無難にこなすスキルが足りてないのだろう。


思慮深く書こうとすればするほど、何も書けなくなったり。

もぉ、新しい記事が勝手に上に来るからだ!

順序からいって、本の1ページ目に最初の文章が来るものじゃないか?
そして、第一巻、第二巻と読み進めていくものなのに。
なぜ、最新刊から読まなくてはならないんだ!?

常に自己最高の投稿を狙っていると言うと、なんだか男らしい。
でも、本気で有言実行するのは、並大抵の事じゃないと思う。

進歩し続けなければならない、果てしない道のり。
‥‥‥考えただけでも挫けそうになる。

失礼ながら、女子棒高跳びのあの人。
イシンバエワさんの世界記録小出し作戦を見習って、少しずつ上げていく方法もある。
もっと良い物を産み出す力があっても、すぐにはそれを出し切らないプラン。
計算ができる、オトナのやり方だ。

しかし、それをもってしても、いつか終わりが来る。
自分の限界を意識しているからこそ、賢い駆け引きが生まれる。
限界を感じてない者ならば、常に最高のパフォーマンスを自分に求めるに違いない。

棒高跳びで例えるなら、絶対に自己記録の更新しか狙わない。
他の選手の挑戦が30センチ低かろうが、50センチ低かろうが!
オリンピックの金メダルが取れそうでも、関係ない。
記録無しで、小学生に負けたって構わない!

‥‥‥凄すぎて、手が届きそうにないや。

結局は、余計な事を始めなければ悩まない。
黙って他人の言うことを選別しているだけのほうが、思慮深いと言えるのかもしれない。


ブログが人生の全てじゃない。
完成できると信じて続けているゲーム作りとか、もっと力を入れたい事もある。

じゃあ、やめるのか?

いや、そんなつもりは無かったはず。

中途半端に終わらせたくない。
ブロガーとして、まだまだ経験してない事がたくさんある!

やっぱり、焦りを感じる原因は己の遅筆ぶりだと思う。
ダメな時は、絞っても出てこないのが文章だ。

明らかにペースが落ちてきている。
更新を日課にするブロガーを目指した者ではないけれど。
出来ていた事が出来なくなる、その意味は大きい。

ペースダウンは衰退を暗示しているのか?
まだ、ちっとも栄えてないのに!

その先にあるのは、ブログの死。
管理人すら見向きもしない、捨て去られた存在となり果てる運命。


‥‥‥楽に考えよう。
まだまだ、放っておいても十分機能しているブログとは言いがたい。
でも、分量が増えてきたのは確か。
ここからは急がず、こつこつ継続していけば良い。

成長を示すグラフは、何も急激な直線である必要はない。
山あり谷ありで、長い目で見て緩やかなカーブを描いてゆくもの。

確かに、死んでいるブログも世の中にたくさんある。
でも、死んだままとは限らない。
ドラクエばりに、ある日ひょっこり生き返っているかも!

まだまだできる。
ごまかしながら、ペースを守らず、頑張っていくしかない!

私は研究者でも専門家でもないので、得られる情報は限られる。
それでも何とか知りたいと思ったら、手当たり次第に漁っていく。

鵜呑みにしてみたり、吐き出してしまったり。
しがらみが無いことだけが強みなので、タブーとか分かってないし。

だけど、子供っぽい、垢抜けない自らの立場に、満足していない自分もいる。

肩書きだけでも偉くなって、「センセイ」と呼ばれる方法がある。
やる気とか根気とかを、学問の世界や社会の現場で発揮すればいい。

センセー、大センセーって、慕われてみたいのかなぁ。

‥‥‥無いものねだりだよ。
今は、生徒でもいい。
わざわざ、先生の間違いを指摘する生徒だ。

あぁ、我ながら何とも煩わしい存在。
人から教えてもらって、説明を聞いて、そして揚げ足を取る。

嫌な性分だけど、そうやって自信をつけていくのかな。

今できる方法でやる。
失敗や間違いの原因を探って、少しでも真相に迫っていこう。


基本的に、私は科学に対して懐疑的。
オカルトに対しても同じ、どちらも程なく疑ってしまう。

熱し易く覚め易いのだろうか。
面白いと思って夢中になれば、少なからず影響されてしまったり。
他のテーマに興味を持ち、そして別の視点を与えられると、物事の粗に気が付く。

それでも、やっぱりオカルト寄りに見られるのか~。

オカルトにチャンスがありそうな所へ目が行く、と言った方が正しいと思う。
夢や希望を嗅ぎ付けたら、自然とそうなっていたりする。

人類滅亡の危機でさえ、考えようによっては生きがいになる。
2012年に何が起こるか楽しみなので、そこまでは何とか生きてみよう、と。


善い国というものは、民衆の意見が反映されているという。
そんな大義名分がある以上、国際的に認められた科学は重宝されて当然かもしれない。

科学的でない主義主張は、それに比べると独裁的だ。
主張が間違っていれば問題外。
間違っていなくても、多数決を信奉する人々にとって扱いにくいものとなる。

科学がより多くの人に役立っているのも事実だろう。
東洋医学が人を助けた事もあるけれど、西洋医学はより多くの人を助けてきた。

それでも、救われない人はいる。

今年もまた、原爆の歴史が思い起こされる季節になった。

被爆者のいる日本で、ロシアで。
国は彼らを救済しなかった、科学的根拠が無いと言って。
爆心地以外で、放射能と病気に関連性があるとは認められないという理由だ。

科学を振りかざした言い訳のお陰で、今も苦しんでいる人たちがいる。
それもまた事実だ。

だったら科学が救いきれない人を救う、などとカッコイイことは言えないが。

しょうもない金持ち、利権持ちの思惑に利用されるのは簡単な世の中。
人の役に立とうという気持ちすら、失せてしまいそうだけど。

素晴らしい未来につながるなら。
自分の行動した結果が、偶然にしろお役に立てたら、悪い気はしない。

‥‥‥役に立つかな?

前回二ビルについて調べていた時、気になる数字があった。
3600年は公転周期だから当然。
それ以外で、西暦2012年という身近に迫った数字なんだけど。

この2012年はマヤ暦に関連する数字のはず。
私自身、二ビルがこの年に何か影響を与える話になるのかと思っていた節があった。
でも、よく考えたらシュメール宇宙論の二ビルとは何の関係も無い。

これがオカルトの心霊じゃない怖さ、落とし穴とも言えるのでしょうか。
二ビルなら、二ビルの話だけで一冊の本にするのは難しい。
だから、他のミステリーを一緒に載せてしまうんだと思う。
多少強引でも、大きなテーマなのだと読み手に錯覚させた方が盛り上がるから。

ダマサレタ!とは言わない。
UFOの写真だって、偽物が多く出回るのは、わずかな本物が存在するからこそ。
ねばり強く、真実に近づいて行けばいい。
ゴミの山から使える物を探すのに比べたら、服が汚れるわけじゃない。

そんな自分の手を汚さない姿勢で、今回も調べてみました。


マヤの暦によると、2万5640年で一つの大きなサイクルを成す。
その大サイクルは五つの時代に区切られている。ちょうど5128年間だ。
五つ目のサイクルの時代が紀元前3114~2012年。
そう、2012年の12月22日(その前後?)が最後の日らしい。

その日を境に地球がどうなってしまうのか。
私が語るまでも無く、多くの説が飛び交っている。

いや、正直に言えば勉強不足なのかもしれない。
どの情報を信じて良いのか分からない。

ポールシフト(極移動)が起こったりしたらどうなる?
日本が赤道上に置かれて、常夏の島国になってしまうのか。
あるいは南極に飛ばされ、ペンギンたちに全てを譲ることになるのか!


そんな中、地磁気に関する重要な情報に遭遇した。

現在、地球の地磁気は大分弱まってきているという。特に南米側で。

そして、過去の地磁気変動をグラフにしてみると‥‥
マヤ暦との関連性が見えてくる。

紀元前3114年頃は、地磁気が非常に弱かった。
そう、4番サイクルが終わり、5番サイクルが始まったあの頃!

ポールシフトが起こるのか! と思いがちだけど、それもどうだろう?
実際、前回の極小点を記録した辺りでは、不発だったみたい。

でも、約1万3000年前には起こったそうだ。
マヤ暦のサイクル2万5640年の中間にあたる。
これはこれで、意味ありげな数字ではあるけれど。


手がかりはあるものの、これはという答えが見つからない。
謎はますます深まるばかり。

たどり着く当ての無い調査は、まだまだ続く。



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